1960年代後半、杜の都・仙台。荘厳なバロック音楽の流れる喫茶店で出会い、恋に落ちた野間響子・17歳と堂本渉・21歳。多感で不良っぽい女子高生と、男からも女からも愛される不思議な雰囲気を持った大学生の、危険で美しい恋。そして、2人の恋をひっそりと見守る渉の友人、関裕之介。3人の微妙な関係は、ある事件を引き起こす―。
https://www.chintai.net/news/2018/04/13/21689/



「宮城の大学生には全く評価されていない」次世代の党幹部の団塊世代が ...
「地元(宮城県)に帰って大学生の皆さんと話し合いをするけれど、全く評価されていないから」
歯に衣(きぬ)着せぬ発言で知られる次世代の党の中野正志幹事長が9日の記者会見で、安全保障関連法への反対活動を行ってきた学生グループ「SEALDs(シールズ)」について言及し、若者の意見を代表していないとバッサリ切り捨てた。
https://matome.naver.jp/odai/2144964330735134001



仙台市所在の本山製作所(従業員約750人、支店東京ほか)では、昭和47年の春闘で、同社の第1組合が大幅賃上げ要求と前副委員長の懲戒解雇処分の撤回を要求して争議に突入して以来、昭和49年12月末に至ってもなお解決をみていない。
https://www.npa.go.jp/hakusyo/s50/s500700.html

#27 保坂展人さん: 不登校50年証言プロジェクト
1955年宮城県仙台市生まれ。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の内申書裁判をたたかう。新宿高校定時制中退後、数十種類の仕事を経てジャーナリストになる。1996年から3期11年衆議院議員を務め、「国会の質問王」と呼ばれる。2011年4月、世田谷区長に当選、現在2期目。著書に『いじめの光景』(集英社文庫1994)、『88万人のコミュニティデザイン』(ほんの木2014)、『脱原発区長はなぜ得票率67%で再選されたのか?』(ロッキングオン2016)ほか多数。
http://futoko50.sblo.jp/article/181405163.html


僕を育ててくれた街、仙台
それで仙台に移り、僕は仙台市立第二中学校の3年に編入した。しかし、それは失敗だった。よかれと思ってやった親の決断だったが、子供には大変だった。カルチャー・ショックだった。勉強に全く、ついて行けないのだ。湯沢では、成績がいい方かなと思っていたが、仙台では、ついて行けない。
自分の中ではパニックになっていた。それに、ボーッとした田舎の子供だから、よく虐められた。湯沢では知らなかった「人間不信」を知った。受験勉強にも集中できず、二高を受験したが落ちた。仕方がなく、私立の東北学院榴ヶ岡高校に入った。そこは、ミッションスクールで、とてつもなく厳しい学校だった。学校には、いつも反撥し、反抗していた。その反撥の中で〈右翼〉にも関心を持った。高校3年の卒業間際に教師を殴って退学になる。こうなると、ただの不良高校生だ。しかし、1年間の懺悔と教会通いの甲斐あってか、退学を取り消してもらい、卒業できた。早稲田に入り、あとは自由だ。無限の可能性がある。と喜んでいたが、全共闘に反撥して、右翼学生になる。それからは40年以上、右翼運動をやることになる。
だから、仙台での4年間の生活が自分の生活を変えた。性格も変えた。思想も変えた。いや、思想的人間にしたのだ。早稲田に入っても、時々は帰省していた。でも、何週間もいない。いや、1年近く、いたことがあった。左翼の運動がつぶれ、右翼の学生運動も内ゲバを繰り返していた頃だ。運動の世界から追放され、仙台の実家に帰った。1969年だ。本屋の店員をしながら、「俺もこれで終わりだ」と思っていた。
鈴木邦男
http://www.magazine9.jp/kunio/110323/


そもそも制服がなくなったというきっかけは、1970年代の学生運動です。
県内には東北大学があったため、その当時、学生運動が盛んでした。
それが一高や二高、あるいは三高といったところに飛び火し、高校内にも、全共闘が組織されました。
その際、制服が「管理教育の象徴」としてやり玉に挙がったというわけです。
進学校と言われるところで、制服がない傾向にあるのは、その影響によります。
仙台向山や宮城野高校は、全共闘運動が下火になってから創立されたのですが、開校以来、制服は定められていません。
http://www.pro-teacher-kikuchi.com/article/15774951.html



石川 理夫 (1947-)
石川 理夫(いしかわ みちお、1947年 - )は、日本の温泉評論家。 日本温泉地域学会副会長。 宮城県仙台市生まれ。 東京大学法学部卒。 全共闘メンバーとして安田講堂事件で籠城し逮捕された。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/308001.html


ノート:学都仙台
https://ja.wikipedia.org/wiki/ノート%3A学都仙台




>昭和40年代半ばには浪人しないと大部分は東北大にも入れなくなっていた

大学紛争の影響が高校にもおよび、まじめに勉強しようという雰囲気が失われていったためだ。著名人の『書を捨てよ町へ出よう』などという本まで出版される有様だった。一高も二高も新左翼活動家が跋扈した。彼らは世の中の当たり前のことをよく「反動」という言葉で否定していた。昭和47年の浅間山荘事件後新左翼運動は急激に衰えたが、一度弛緩してしまった精神はなかなか紛争前のようには回復しなかった。世間では三無主義という言葉もよく聞かれた。

二高の殺伐とした雰囲気は『八十年史』の117ページに出ている。

/* 昭和四十三年に着任した第十二代小針寿一先生の時代は、もっとも多難な時代と言える。四十四年七月、高校反戦会議が成立、十月「仙高連」デモ、「高校全共闘」デモが続く中で、十一月四日、本校職員室から事務書類が、本校生の手によって持ち出され、職員の懸命の探索によって北陵会館わきのやぶから発見されるという事件がおこり、・・・四十七年の卒業式では「君が代」も廃止されている。
四十五年九月六・七の両日の北陵祭ではヘルメットと角材で武装した本校生七名と女子高生一名を含む市内高校生十一名が、物理階段教室を占拠し、担当教師がわたり合って退去させた。同年、仙台三高生九名、本高生一名、一高、仙台高、学院高、育英高の十七名が角材を持って、三高の職員室に乱入し、本校生も警察に逮捕されるという「仙台三高襲撃事件」もおこっている。
四十七年の卒業式では、式当日、二年生徒五名が、「卒業式の意義について」無届集会を開こうとして停止を受け、式では答辞代表が起草委員会の作成によらない、学校批判の内容をふくむ答辞を読みだし、退場させられた。これらの闘争のなかで長時間の職員会議が何度も開かれ、闘争に参加した生徒の処分も行われたが、処分は退学まで行かず停学止まりであった。本校教職員にとっても苦悩の時代であった。
激しかった学園紛争も、昭和四十五年、「七十年安保」が国会を通過したころからセクト間の争いが一層激化し、四十七年、連合赤軍による「浅間山荘事件」や「リンチ殺人事件」がおこると一般学生を巻き込んだ紛争はようやく下火となり、高校紛争も関西の方から沈静化した。 */

>仙台二高も同じように浪人だらけ、

学習態度の悪さのつけが出ただけだ。

/* 『百年史』158-159ページ */

同じ『造型』十七号に組まれた特集「二高を見つめよう--二高生その学習」という記事の中で、二年生の浅野史郎君(現宮城県知事)は、二高生の学習態度を憂え、次のように訴えている。

二高生の学習態度

浅野史郎

最近、内外ともに、二高生の学習態度についてもっともっと真剣に考えようという動きが起こっているが、ここでぼくも二高生の学習態度についてごく率直に書いてみようと思う。
まず第一に言えるのは、授業に対する積極性が全く足りないということである。これは予習を少ししかやってこない、それもトラでまにあわせるようなこととも関連してくるのだが、このことをはっきり示しているのは、あの授業中の異常なまでの静けさだろう。休み時間、先生がいらっしゃるまでの騒々しさとは全く正反対である。そんな我々であるが、中には我々を巧みにひっぱっていって活発な授業にして下さる先生もいらっしゃるが、そうでなければたいていの時間は、先生の一人相撲で受身本位の授業に終始しているのが実態のようだ。先生が発問なさっても生徒はシーン。まして自分から先生に質問する生徒は、英語の時間は例外的に活発であるが他の教科となるとほとんどいないのが実情ではないか。はたしてこれで良いのだろうか。たまに誰かが質問すると、周囲は感嘆と好奇の目でこの勇者をみつめる。いったいこういう雰囲気はどこから生まれてくるのだろうか。こういう雰囲気は二高からぜひとも一掃しなければならない。授業に対する一人一人の熱心さも大事で必要なものではあるが、その前にいやがおうにも授業に真剣にならざるを得なくなるような雰囲気を我々自身の手によって作りあげることが絶対に必要不可欠なのではないだろうか。
次に我々二高生は、ほとんどの者が大学進学を志している。しかもその大学は東北大学ではないだろうか。そうであるのに現状では国立大学はもちろん私立大学でもどこでも大学と名がつけば、そこに入るための入学試験は激烈であり、定員の四倍、五倍それ以上の難関を秀才たちが狭き門をめざして押し寄せている。人並みの努力ではこの難関を突破することは不可能で有名校にいるからといってのほほんとしていても入れるということは絶対にないのである。しかし、現在の二高生には、このような現実を目の前に見ていながら、それから目をそむけてしまって現実を見つけようとせず大学入学にかける悲壮感といったものがあまり見られないのではないだろうか。三年生にもなれば、もちろんほとんどのものがこの現実をはっきり自覚し、まさに悲壮とも思える努力を開始するのであるが、入試をほんの一年後にしてからあわてても、どうにもならないなどということは諸先生方から何度ともなく聞かされてきたことであり、自分でもよく知っているのであろうが、一年生や二年生においてこのような自覚をもって毎日努力をしているものが何人いるであろうか。入試に対して極端なまでの悲壮感を持つべきだとはもちろん思わないが、今の我々の状態においてはもう少し現実を直視し、それに対してどういう態度で臨まなければならないのか深く考えるべきではないだろうか。
(中 略)
第四に、我々は先生を利用するということが少ないということ。最初に述べた授業への積極性にも関連しているが、我々はまた、先生に対しても消極的すぎると思う。「先生は生きた参考書、大いに利用すべし。」とかいうことを、どこかの雑誌で読んだ覚えがあるが、そう考えれば、我々はまことにすばらしい参考書を非常にたくさん持っていることになる。それなのに我々はこの生きた参考書たる先生方を十分に活用しているとは言えないのは、まったくもったいないと思う。先生方は忙しくなければ(実際先生方はいろいろな雑用で大変忙しいようであるが)喜んで我々のために活用されてくださるだろう。もし先生方が忙しくない時に、我々の質問に応じて下さらなかったら、大いに問題としても良いことであろうと思う。
(中 略)
いろいろ二高生の学習態度についてできるだけ客観的に書いてみようとしたが、いつのまにかぼく自身の反省を書いてしまったかもしれない。しかし、これだけは言える。二高生の中には僕のようなものがたくさんいるということだ。

/* ここまで */


https://www.zyuken.net/school_page/10410121113/bbs_id/978114161462130/
上記リンクから引用